女の子の人生、きいてみよう #01 中編

作家 川上 未映子

本書は、2019年4月15日に行われたウンナナクールが主催する、作家・川上未映子さんとアートディレクター千原徹也さんのトークイベントを編集し、収録したものです。

川上さんは、「女の子、登場。」というウンナナクールのステートメントをはじめ、伊藤万理華さんの「わたし、いい度胸してる」や、のんさんの「わたしは、わたしの夢をみる」などの年間テーマも書いていただいています。約50人の女性を前に、女の子が自分自身のからだとこころで生きていくことを強く肯定し、応援してくれた川上さんの言葉をお届けいたします。

思春期の記憶

スヌーピーからはじまった

川上
私が思春期の頃、ワイヤー入りのデザインは「お姉さまの下着」という印象でした。小学校の高学年から中学生にかけて、スポーツブラのようなセクシャルではない下着を身につける段階がありますよね。
千原
はいはい。
川上
男の子は白ブリーフから、ボクサーショーツに移り変わっていくんですよね。
千原
そうですね、最初はみんな白ブリーフから。
川上
ブリーフ、清潔なイメージがあるし、すごくいいと思うんですけど、あれはやっぱりだめなんですか?(笑)
千原
今思えば、そない悪くないかもね。
川上
うん。なんかいいなと思うけど。でも私の知人の男性に言わせると、白ブリーフには〝母親から買い与えられている〟というコンテクストがあるから、あれを脱ぐということは〝母殺し〟でもあるんだと。ブリーフ脱いで一人前って感じなんだね。名前を書かれたりするんでしょう?
千原
そうそう、ゴムの部分に書かれてた。洗濯を繰り返して「ちはら」の文字が滲んでたり(笑)。確かに白ブリーフとゴムの名前には「自分の意思でやっていない感」がある。Tシャツとかズボンも親が買ってくるよね? 「はいこれ、徹也、着ぃや」と渡されて、それを着ている。中学生くらいになってくると自分で友だちと買い物に行くようになるわけよね。
川上
だから、自分が一生懸命「いいな」とか「カッコイイな」と思って着ているのに、その下には親が買ってきた白ブリーフをはいている、という時期もあるわけで、そのギャップに耐えられへんくなって、「オレは本当に自立するぞ」という気持ちで最後にブリーフを脱ぐという。
千原
小学生とか中学生では体育の時間にみんなで一緒に着替えるよね。そうすると互いを牽制しあってだんだん白いブリーフが減っていく(笑)
川上
そういう時には、どういうものに変化するんですか?
千原
トランクスかな。英語とかが入った柄のトランクスとかをはきはじめる。
川上
トランクスね。ボクサーショーツの手前のね。女の子は、お母さんと下着を買いにいくものなのかな、私の家庭は母親が忙しかったということもあり、親と下着を買いにいくことってありませんでした。どこからか姉が入手したものを使わせてもらったというか。なぜかそのへんの記憶があいまいなんです。覚えているのは、とにかくこれ、というメインのものが一枚だけあって、それはスヌーピーのジュニアタイプのブラジャーなんですけど。それ一枚とともに生きている感じでした(笑)。今はウンナナクールさんのように、いろんなタイプのおしゃれな下着があっていいなと思います。服を選ぶ延長で手にとれる感じがいいですよね。
  
小学校の高学年から男女分けて性教育があるでしょう。中学一年生の時、体育館に女子だけが集められるんやけど、その空気感がいま思っても異様でしたね。教育現場で性教育に関するガイドラインが充実していなかったと思うし、探り探りでやっていただろうから、妙な緊張感がありました。いつもの先生なんだけど、無理してるなっていうか。ぎこちない感じが伝わってきましたね。

で、指導の中身はというと、スカートの短い女子生徒が先生から注意を受けたり、ブラジャーを目立たない色にするように指導されたり。その理由が「男子が気になってしょうがないから」。明確にそう言われました。

その時は、女の子たちも「そういうもんか」と受け入れるんですよね。女の子の身体や下着は、男の人の目によって消費されるものやというのを当たり前に言われているから、自分の身体が評価付けされて当たり前の中を生きているわけです、最初から。スカートめくりとかありましたよね。されても腹が立つけれど、されなくてもなぜかみじめな思いをしなければならないというねじれた感情を植えつけられる。

親にしても男の子には「女の子を脅かすなよ」とは言わないわけです。何かがあったとき、「女の子の方に隙があったからや」と言われるし、とにかく性的な事件が発生したとき、責任を問われるのは女だった。親も子どもに傷ついて欲しくないから、悪気なく予防の意味を込めて「守れるところは自分で守りなさい」ということを伝える。女の子自身も、自分の身に何か起きた時「自分に隙があったからだ」と思ってしまう。「男は狼になるから、気をつけなさい」みたいな言葉を、真面目にも冗談にもわたしたち世代の人はみんな聞かされたことあると思う。こっちに言うなよ、わかってんなら捕獲しろよ、って話なんだけど、みんなそれを許してきたんだよね。

だから〝個人〟なんかじゃなくて、「女の身体」というのがまずあって、その中にスイカの種みたいに自分らがおるような感じというか。

言葉を与えていくことの大切さ

〝現実の自分〟を何も保証してくれない

川上
SNSの力も大きいと思います。もちろんしんどい面もありますが、それぞれが思っていることを発信できるようになった。「ひとりじゃない」ということがシェアされてわかるようになってきた。自分の違和感を元にして、それを言語化している人がいると、そのロジックや言葉を通して学ぶことができる。さらには、その言葉に対して他者の意見がついて、蓄積されていく。もちろん、その中のやりとりの多くは不毛なものが圧倒的に多いです。心ない人もいるし、相手をやりこめたいがために参加している人もいる。だけど、SNSとの付き合い方を上手にコントロールすれば、中には胸に残る文章とも出会えることがある。
自分が抱いている違和感とか「自分が変わりたい」という想いや自分が持っている問題と向き合うことに、言葉を与えていくことってすごい大事。それがどこにいてもできるようになったというのは、大きな進歩だと思います。
千原
SNSって「いいね」ボタンがあるから、それで全て解決するやん。
川上
それがいいとは思わないけど、私たちに教えることもあって。Instagramもやればやるだけ虚しさを感じるようになってるでしょう。全てはエディットとフィクションやから。「いいね」が増えると、いい感じにはなる。でも、それは〝現実の自分〟を何も保証してくれない。

「いいね」を押してくれた人が、実際に自分が困った時に話をできる相手なのか、心配ごとを打ち明けることができる相手なのか。無理でしょう。それが無意味やとは言わないし、一つの機能として働いてはいると思うけれど、すごく熱中して楽しんでる人だって、確実にしらけている気持ちもあると思う。

適切な距離でのリテラシーを持ってSNSと付き合えば、自分のある部分をエンパワーメントするようなものに出会えるような気もします。そういうツールとして。

コンプレックスの克服

千原
人に相談した時でも、相手に本当のことを言ってほしくない時があんねんけど。 「こんなことがあったんやけど、僕ってアカンかな?」という話をした時に「それはアカンやろ」と本当のことを言われるよりも、「大丈夫、そんなに悩まんでいいよ」と言ってもらいたいw
川上
「大丈夫やで」って相手が言うやろうなっていうことを含めて聞いてる感じ?
千原
無意識に「大丈夫やで」って言ってくれる人を選んでるんかもしれん。
川上
千原くんが話したことってドストエフスキーの小説の原動力にも通じるよね。ドストエフスキーの小説ってとにかく登場人物がしゃべるんです。登場人物Aが何かを話す、それに対して登場人物Bが何かを返す、そこで語り手が抱く違和感が次の言葉を繋げていく。この運動がドストエフスキーの動脈。バフチンというロシアの文芸評論家が『ドストエフスキーの詩学』という本の中で、その働きを「ラズノグラーシエ」と呼んだ。どういうことなのかというと、「違和を感じる」───つまり、違和感のことです。この「違和」というのは、まさしく千原くんが感じていたもの。
  
例えば、私は目が離れていることが若い頃のコンプレックスでした。安室奈美恵さんが登場して、ようやくそれが長所や個性であるとされるようになって。 「私って、目が離れてるやろ?」と誰かに言った時、相手から「うん、すごい離れてる」と言われてウッとならなければそのことを克服できていて、反対に傷ついたとしたら、その問題を克服できてないと。違和をめぐる気持ちのありよう、これがラズノグラーシエで、それを意図的に試すことを私は〝ラズノグラーシエごっこ〟と名づけています。
千原
なるほど。
川上
千原くんが「本当のことを言ってほしくない」と言ったのは、文学的な感受性でもありますよね。克服できているのかは深層心理であって自分ではわからない部分もある。ラズノグラーシエごっこなら試すことができる。今なら、私は「目が離れている」と言われても、ウッとならない。これは私が〝目が離れている〟ということを克服したということですね。
千原
川上さんは日々の中で、小説とか作品について嫉妬したりとか、「自分って何なんやろう?」とか思ったりというのはないの?
川上
その意味で他人に興味がないので、嫉妬はないですけど、自分の技術にたいする焦りは常にあります。あと、たぶんドラゴンボールの悟空タイプやねん。すごい作品を読むと、こう、わなわなと武者震いするような。「おめえ強えな! 待ってて、俺もすぐ行くから!」みたいな(笑)    子供の頃からそういう傾向はあって、このあいだ小学生の時の文集を見つけたんだけれど、みんなは楽しかったことや「大きくなったらこうなりたい」というようなことを書いているわけ。でもわたしの作文は、5年生の時に運営委員に立候補した時のことが、もうねちねちねちねち書いてあって、それにはちょっとうんざりした(笑)。  運営委員は、生徒会のような、学校をまとめる存在なんですけど、私は立候補したのに、どうも自分が満足をいく仕事ができなかったと総括していて。そうやって気がついたら五年生が終わっていた。このままではだめだ、自分を乗り越えるために6年生でもう一度運営委員に立候補をして、「私はもう二度と逃げない」とか書いていて、とうとう自分はやり遂げたと。責任論にしか興味がなかった(笑)。

私の人生、「楽しい」という基準がほとんどないんです。とにかく自分が最善を尽くせないことが恐ろしくて。職業に限定されることなのかと思っていたら、小学5年生の頃に既にその基準ができてた。強迫観念ですよね。

プロフィール

1976年8月29日、大阪府生まれ。 2007年、デビュー小説『わたくし率イン 歯ー、または世界』が第137回芥川賞候補に。同年、第1回早稲田大学坪内逍遥大賞奨励賞受賞。2008年、『乳と卵』で第138回芥川賞を受賞。2009年、詩集『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』で第14回中原中也賞受賞。2010年、『ヘヴン』で平成21年度芸術選奨文部科学大臣新人賞、第20回紫式部文学賞受賞。2013年、詩集『水瓶』で第43回高見順賞受賞。短編集『愛の夢とか』で第49回谷崎潤一郎賞受賞。2016年、『あこがれ』で渡辺淳一文学賞受賞。「マリーの愛の証明」にてGranta Best of Young Japanese Novelists 2016に選出。他に『すべて真夜中の恋人たち』や村上春樹との共著『みみずくは黄昏に飛びたつ』など著書多数。『早稲田文学増刊 女性号』では責任編集を務めた。最新刊は短編集『ウィステリアと三人の女たち』、7月に長編『夏物語』が刊行予定。

commune guest

page top